結論から言うと「オタクってめんどくさい」です。 はい。 なにがめんどくさいって言うと、東方周りだとカップリングの呼称がややこしいんですよ。 例えば”レイマリ”という単語があるじゃないですか。 これって他の作品で用いられる”○○×△△”、いわゆる掛け算と違って受け責めが左右で決まっているわけじゃないんですよ。掛け算に従うならば”マリレイ”と呼ぶような作品も呼称は”レイマリ”に一括りになっていることがあります。 そもそも”別に恋愛しているわけではない”というパターンもあるんですよ。というかこっちの方がとても多い。「俺のレイマリは恋愛してねぇんだよ!」とかいうセリフは東方界隈ではありそうなものですが、私の感覚からするとどこか変です。カップリングって恋愛前提の話じゃないのか…? とはいえ私はキャラに恋愛させろって言っているわけではなく。むしろ私的には東方での百合恋愛は地雷に近いです。「これ実質付き合ってんじゃん!!」って外野が言うのは好きですけど、キャラ本人が色恋を意識している創作は嫌いです。 カップリング名を使っている人が何を好んでいるのか分かりにくいんですよ。言葉が正しく伝わらない可能性が大きいというのは、コミュニケーション上問題があるでしょう。どのパターンか推測するのはとてもめんどくさい。かといって「それはどういうレイマリを指していますか?」と聞くとこっちがめんどくさいと思われる。 は? オタクの付き合いめんどくさいな???????? とはいえ今更根付いた呼称を意図的に変えるのはほぼ不可能であって、東方にいる限りはこのややこしい呼称と付き合っていかねばならないのです。 そういうわけでオタクってめんどくさいなぁという話です。オタクに罪があるわけではないんだけども。
[2回]
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五行思想です。木火土金水のアレです。CCさくらや遊戯王なんかにも出てきますね。 東方にも結構関係がある思想の一つです。パチュリーの魔法にはもろに五行要素がありますしね。まぁ七曜なので少し違うと言えば違いますけど。 五行思想っていうのは、それぞれ五つの属性が色んなものを象徴していて、それぞれに相性があるという考えです。図書館でそういう思想について書いてある本を読めばより理解できると思います。まぁこういう民俗的なことが書いてある本って難しいものだけではなく、胡散臭いものも混じっているので読み始めにちょうどいいモノを探すのが結構大変なんですけども。 各属性が象徴する色やモノを図にしてみました。金は分かりづらいですが白を表します。”相生” というのは別の属性をより強くすることができる関係です。例えば木は火をより強くしてくれます。これは木材が火の燃料になることからイメージしやすいでしょう。”相克” は反対に別の属性を弱める関係になります。図のように水は火を弱めるという関係になっています。 さて、図を見た時点でだいぶ東方要素を感じられる人もいるでしょう。 たとえば木が表すものは春。天空璋で言えば春は霊夢やあうんの属性です。とすれば彼女らは五行で言えば木属性に該当すると言えるでしょう。というか、萃夢想のパチュリーの五行診断で言えば霊夢が木属性であることは明らかです 。霊夢に勝つのに有効なのはワサビ(=辛み=金)と発言しています。 また”魔理沙が水属性である” ということはあからさまと言えるくらい表現されていますね。パチュリーの診断以外にも香霖堂でも憑依華でも言われています。緋想天の天候も”霧雨”ですからね。 で、彼女がよく使う炎・光がどこに属するかといえば火属性なわけです。先述の通り水→火は相克の関係になるため相性が非常に悪いと言えます。布都が「難儀な奴」と言うのも納得ですね。 しかも面白いのが水→木が相生の関係になっていることなんですよね。つまり魔理沙が霊夢を強く、というか際立たせている。ここら辺に一生霊夢に主人公として勝てないんだろうなぁという関係が垣間見えます。五行を通して見ると、神主さんは魔理沙をいじめているようにも思えますね。 まぁ私も創作で魔理沙をめちゃくちゃいじめる予定なんですけども。 なお、各属性がつかさどる方角はそれぞれ木は東、火は南、土が真ん中、金が西、北が水となっています。字で示せば以下の通り(図を作るのが面倒)。 水 金 土 木 火 つまり霊夢は東を示す属性を持っているわけですね。東方の主人公にふさわしいと言えるでしょう。 さてさて霊夢と魔理沙以外にも五行で考えられるキャラはいるわけで。 パチュリーの五行診断は他のキャラでも結果が出ています。咲夜・妖夢は金、紫は土、アリスは木だそうです。以下より、考察というより私の想像と呼ぶべき文章が増えます。 神主さん的には金はゴーイングマイウェイな属性なのでしょうか。萃夢想の時の妖夢って…。 まぁ萃夢想に限らず、妖夢はどの作品でも若干視野が狭いというか決まったこと以外しないみたいなところありますしね。咲夜については言わずもがな。絶対人の言うこととか半分も聞いてないですからねあのメイド。 自己完結気味なキャラが金属性と考えると、神子・天子などの偉そうなキャラも金属性な気がしますね。映姫さまとかも。新キャラで言えば八千慧とかもそれっぽい。 土属性の紫で言えば兎にも角にも胡散臭いというイメージがありますが、これはあまり属性に関わっている気はしませんね…。季節の変わり目=判然としないと考えれば関係ないこともないか? それよりは「母なる大地」なんて言われるくらいですし、幻想郷の管理に積極的な部分に繋がっている気がします。他キャラだとさとりとか聖とか土属性かも。まぁ五行的になんであろうと私は紫が大将気取りのかまってちゃんであるという思想を崩しません。八雲紫に騙されるな。 さてアリスが木属性であることには、霊夢と若干気の合うあたりからすごく納得が行きます。 木属性の性格は…ダウナー系とでも思えばいいでしょうか。ネガティブなわけではなく、比較的落ち着いていて動じない人。こんな感じ? 木じゃないけど「徐かなること林のごとく」って言いますしね。信玄公の風林火山は孫氏の兵法から来ていますのでちゃんと中国思想である五行とのつながりはあります。テキトーに言っているだけではありません。 まぁ真っ先に思いつくのがサグメですが、蛮奇とかも木属性に入るでしょうか。てゐとかパチュリーとかの生きることが得意そうな人たちも木っぽい気がします。 んでパチュリー診断では特に該当者がない火属性。 まぁ火=夏=活発という連想で行くならば、天空璋で夏担当のチルノや魔理沙の"表面上の"性格がしっくりくるところです。自信満々で行動的。快活で非常に単純。 案外、輝夜とか火属性じゃないでしょうか。まぁ元ネタで言うならば竹=木なんですけど、割と言うことハッキリ言うイメージがあります。深秘録以降の印象や技のイメージで言えば妹紅もそうでしょう。 あとは布都あたりのバカキャラがまとめてここに入るんでしょう。早苗なんかも火でしょうか。視野の狭さで言えば金ですけど、他人の影響を受けやすい面が金のイメージとは異なります。 最後に水属性です。これに該当する魔理沙は作中描写では活発的ではありますが、設定テキストなどでは内向的な一面が記されています。 「一人で努力している」とか「実験中は他人に近寄って欲しくない」とか、とにかく努力家です。また本人以外の言動から妖怪などの常人離れした力を持つことへの憧れが見て取れます。魔理沙はただの人間である自分に自信がないと考えてもいいでしょう。憑依華での夢魔理沙の主人公コンプレックスは予想外だった。 つまるところ水属性の特徴はこういう魔理沙の裏の顔に関係するのかな~と。いや、唯一水属性って判明している魔理沙が二面性のあるキャラなせいでこういうことしか言えない。外面は火属性的なモノでしょうし。神主はそういう人です。 まぁツラツラ書いてみましたが、ほぼ妄想ですね。でも民俗的な面から見る東方は面白いものですよ。神主の制作はこういう部分が根本にあるはずなので色々通ずる部分があります。 まぁ宗教的なものっていうのは大体のことに通ずるように出来てるものなんですけどね。
[16回]
ふし幻はこんなことにならないのになぁ、なんて思っています。かたもちです。 ソシャゲと買い切りゲームの違いなんでしょうかね。よく分かりません。 なんの話って、まぁ東方キャノンボールですよ。 私は興味がありませんのでやるつもりは元から無かったのですが、東方関連の場所だったらどこでもキャノンボールの話しているようです。 そんなに話題にするんだからみんなキャノンボール好きなんだなと言えばそれも違うようで。よく分かりません。 私としては荒れ気味な空気が流れて居心地が悪いだけで楽しくはないですね。 さてまぁそんな状況でも一個良いところがあって。 ツイッターだとみんなの二次創作趣向が見れるんですよね。東方宗派とでも言いましょうか。 「別に原作と違くても良くね」とか「解釈違いは楽しめない」とかみんなが言っているので、この人はこういう宗派であるというのが見えるんですよね。 あらかじめこういうことを知っていると後々の会話で齟齬がなくて良いかもしれない。 解釈違いを許す許さないの容認派と原作派がいたり「あっこれ古い二次ネタじゃんwwww」なんてことを言う古典派もいたり、「そもそもゲームが面白くない」と言うなんでソシャゲやりだしたの君派もいます。 多種多様ですね。みんなそれぞれでいいのです。 んで、私が一番共感できるのは特にキャノンボールへ言及してない人たちですね。 二次創作は二次創作。興味ないなら何も言わない。この人たちを神主派とします。 一番平和的でいいと思います。神主派の人たちとは多分東方に関する見方が同じなので、あんまり配慮とかせず東方の話をしてよさそうです。 「キャノンボールに興味を持っているだけで他の興味ない二次創作には全然言及しない人もいるのでは?」と思いましたけど、そういう人とは宗派は同じでも趣味はまた微妙に違う気がしますね。キャノボ、私としては自分視点で東方キャラと会話する部分とかゲーム性の説明を生放送でしかやってくれないところとかなんとなく好かない部分があるんですよね。 はてさて私もまたツイッターではキャノンボール関連について何も言ってないので神主派にと名乗りたいところですが、そのくせこの記事で色々言ってしまっているのはなんだか卑怯なような気もします。 しかしまぁこのブログは秘境なのでセーフです。それに神主さんもポロっと言いたいこと言ってますしね。神主派としては問題なしです。 あなたの宗派はどれでしょうか。
[1回]
※この記事は漫画”東方茨歌仙 ~Wild and Horned Hermit~” を最終話を含めた全話を読んだ方向けです。ネタバレがございます。ぜひとも漫画本編を片手にお読みください。 先日発売されたFebri VOL.55(2019年7月号)にて東方茨歌仙の連載が終了いたしました。 最終話を終えて思ったことは色々ありますが、中でもまとめておきたいのが茨木華扇(茨華仙)というキャラクターについて。 華扇は謎めいていて達観的、されども庶民的で親しみやすいというように多くの表情を持っています。「ギリギリ矛盾していないダブスタが多い」 と私は思っているのですが、まぁたくさんの ”二面性” があるキャラです。 そのせいで華扇のキャラはちょっと分かりにくい。東方キャラは往々にして性格が分かりにくいのですが、まぁ華扇はこの”二面性”もあるものだからより難しい。時間を置くと「あれ華扇って結局どういうキャラだっけ」と忘れてしまいそうになるので、思ったことが抜けないうちに書いておこうというわけです。 〜〜〜〜この先ネタバレ〜〜〜〜-まずはおさらい!茨木華扇ってどんなキャラ? 華扇の特徴をサラッと書きまとめてみましょう。・仙人であり、鬼である ・やや謎めいた雰囲気がある ・やたらと裏活動したがる ・ドヤ顔が似合う ・仙人のくせに食事を好む ・二次創作で淫ピ呼ばわりされる この三つは作品内(および深秘録)で繰り返し強調されてきたことですね。 以前の記事にて詳しく書きましたが、ここら辺は設定のブレがある東方作品と言えども確定事項であると考えて大丈夫でしょう。 また、すでに前述していましたが個人的に感じているのは二面性。 動物を導き、霊夢には説教をかまし、人知れず活動している浮世離れした仙人的な一面。気に入らない怨霊をグチサァし、「化け狸風情が」 と問題発言をし、炒った豆を嫌う鬼的な一面。 モグモグしながら現れる、デフォルメおろおろ顔を見せるなどの可愛らしい面。時折恐ろしく悪そうな顔になったり、意味深なことを言って底の知れない何かを感じさせる怪しい面。 動物たちの使役に関してドヤ顔を見せるなどの自らを誇る面。人知れず活動をし、記憶消去などを用いた隠蔽を行う目立つことを嫌う面。 こんな風に華扇は相反するような要素を多く持っています。 そもそも鬼と仙人という二つの要素のあるキャラですから、これも意図して作られているのではないかなぁというのが私の予想です。 普段は楽しそうに生活してるけど、目的のためとあらば強行も辞さない。そんなところが華扇の魅力じゃないかなと考えております。-茨歌仙最終回で明かされた華扇の目的 さて華扇というキャラを大まかに理解するために、凄く大事なことが最終話で描かれました。 最終話における華扇の独白において、切り取られた腕には彼女の邪気が込められて封印されたとあります。 そして邪気のなくなった華扇は地獄のような現実に興味がなくなり、仙人になったと。 つまり『華扇は真に仙人になりたかった』 ということです。 茨歌仙を読んできた方はこの事実にビックリしたのではないでしょうか。私は「は???!!?!??うおぉお?!!!へぇっ!!!!!」みたいな奇声上げました。前回の記事 には書きましたが、華扇はかつて「仙人生活はただの隠れ……(隠れ蓑?)」「良いことしてるように見えるはずなんだけどなー」などという発言をしております。 これらと今回の事実は明らかに噛み合いません。初期の描写では仙道を歩むことが目的ではなく、建前として扱っているように見えますからね。 端的に言ってしまうと、昔の設定が微妙に消える “いつもの東方現象” が起こっていたのだと予想できます。 最終話が載っているFebri VOL.55には神主さんとあずまあやさんへのインタビューも掲載されています。この中で神主さんは「これまで華扇が主人公としてほとんど動いてなかった」 「初期は陰のある紫的な立ち位置だったが、ユルい保護者みたいになった」と言っているあたり、華扇というキャラ自体がどこかのタイミングで変わったのでしょう。 というわけで初期の不穏な感じは忘れた方が良いです。完全になくなったわけでもないようですが、少なくとも1巻のままのキャラではありません。-メタ的な華扇の変遷! いつもの東方現象はどこで起きた? さて “いつもの東方現象” です。茨歌仙ではどこで起きたのかなぁと考え始め、まず思い出したのが7巻収録の ”茨華仙の進む道“ でした。 この回にて、華扇は「私の理念は天道と共にある」と発言をしています。 最終話を読むまで、私はこの発言をキッチリ受け止めることができませんでした。今までの見てきたどこか陰のある華扇と天道という華々しい言葉が結びつかなかったのです。 しかしこれには「華扇がもはや初期の華扇とは違う」というメタ的な意味も含まれているのだとしたら。 「私はあなた(紫)側ではない」という言葉から続いたこのセリフは、神主さんの中で紫と華扇の立場がまるで違うから(違くなったから)出たのでは。 そう思うと、何年越しかでこの天道発言が腑に落ちたのです。 かーなーり考察厨じみた私見になりますが、この回は『茨木華扇というキャラの設定はもう既に変わったのだ』 とハッキリと決定させるための話だったのではないかと考えています。 まぁその後紫との対面を霊夢に見られないように逃走しているあたり、相変わらずだなぁという面もありますが…。完全に善人キャラになったわけでもなく、まぁ良い感じに鬼成分がアクセントになった真面目キャラに落ち着いた感じですかね。 こう見ればこの回で “いつもの東方現象” は完全に起こり終えて、神主さんの中では華扇のキャラは別物になったと見れますね。7巻はあずまあや先生の絵柄の変遷も収まり(ブラッシュアップは起こるけど)、色々な意味で茨歌仙が形として収まった巻だったのでは? では “いつもの東方現象” の起こり始めはどこか? こればっかりはなんとなくでしか分かりませんね。 強いて言うと、という感じではありますが……深秘録でしょうか。 今作のEDにて華扇は「用事を済ませるために外の世界に出たものの、あんまり意味無かった」 といったことを語っており、これは茨歌仙最終話の回想で描かれたことを指しているのだと考えられます。 深秘録製品版が頒布されたのは5巻の内容が連載しているあたりです。この頃にはすでに茨歌仙のオチの想定されていて、華扇のキャラも初期の大悪党とは違うものになっていたのかな?なんて思ったり。また深秘録では「猿の手が願いを叶えてくれるなら、猿の手のままでいてもらおう」ということも言っています。 猿の手のままで。自分の手ではなく。これは「猿の手では換えが効かない」という意味だと思っていましたが、最終話を踏まえれば「そもそも腕を生やすことが目的ではなかった」ということだったと読めます。 深秘録と最終話で繋がる点が割とあるあたり、やっぱりこの頃には華扇のキャラの変遷は起こっていたんじゃないかなぁ。 少なくとも大悪党だったのは3巻くらいまで? そこから変遷していき、7巻では完全に良い人になっているというのが持論です。-仙道を歩むという華扇の目的 華扇の目的というのは今までずーーーっと明かされてこなかったのですが、今回『封印された腕をただ隣に置いて仙道を歩む』 ということが分かりました。 彼女は腕の完治、鬼としての完全復活などを望んでいなかったわけです。 これには「はーーーーーーーんなるほどーーーーーーーーーーーーー」となりました。 腕に関してなにかしらケジメをつけるのでは、とは想像していたのですが「そばに置いておくだけ」というのは予想外。 てっきり腕を消滅させることが目的かなとか思ってました。もしかしたら華扇ごと完全消滅するという悲しい終わりになるかも、とか予想しましたが東方でそんな悲しい展開が東方で起こるわけはない。 この回以前で華扇の目的について言及があったのは4巻での萃香との会話ですね。 萃香は「華扇は結界を突破して腕を探しに行くために、正体を隠して博麗神社に近づいている」と予想していました。確かに博麗神社といえば結界です。阿呆のようで幻想郷の知識が結構深い萃香がこの予想をするのは当然と言えば当然。 しかし華扇はこれに対し「別にそういうつもりでもないけど」なんて内心独り言ちています。 実際、結界がらみで神社に近づいている意志はなかったんでしょう。「神社が結界の境界である」ということを華扇が知るのは5巻の話。話がズレますが5巻で結界について知ったとき、華扇は「それはそれは」と意味深な反応をしています。多分深秘録の前振りでしょう。 深秘録では華扇が神社にて結界を壊していますが、当然神社が結界の境界だということを知っていなければこの行為は不可能なわけです。華扇が結界の情報をここで知ることで深秘録のストーリーが成り立つ、という流れ。 では神社に近づいたのはなぜか。 これは一話のセリフを素直に受け取ればいいのでしょう。「仙人として神社の様子を憂いていた」「俗界に興味が湧いてきた」 とかそういう仙人らしい理由になるでしょう。 結界のことは元々知らない。「腕を再封印するには一度霊夢に自分を倒してもらう必要がある」ということも外の世界で腕を見つけて初めて気づいた。つまり、計画的に神社に近づいたわけではないということになります。 それに華扇は一話時点で説教好きの仙人であると言われてます。 霊夢の商売下手さを指して「見るに堪えない」と評し(深秘録)、早苗には「霊夢のお母さんみたい」と評される(8巻)ようなキャラです。神社をどうにかしようとするのも不自然ではないでしょう。でも大悪党発言とか考えるとなぁ、となる気持ちもありますがそれは全て”いつもの東方現象”という言葉で片付けましょう。 華扇の目的はかつてのケジメとして腕を手元に置き、仙道を進むこと。 神社に近づいたのは仙人としての活動の一環で、悪いことをするつもりはなかった。色々なことを考えても結局明文されたこれが真実なんだと思います。-結局華扇もワガママな東方キャラの一人 私が個人的に最終話で一番よかったと思うのが、華扇が仙人になりたい理由が ”邪気が消えた影響で現実に興味を無くしたから(天界へ行きたいから)” であったことです。 腕ごと邪気を封印されたというキッカケはあるものの、仙人になりたい"から仙人を目指している というのが凄く東方らしくて良い。 これこれこういう過去があってこういう因縁だからこうしているなんてことになったら幻想郷に住む妖怪らしさが消えますからね。自分の欲望のために生きているワガママであってこその東方キャラですよ。 憑依華のドレミー曰く「夢華扇は静かに暮らしている」とのこと。解釈の一致でした。 最終話の回想および「人に近づきたかったから」(4巻)も含めて察するに、彼女は鬼の生活に嫌気がさしたので仙人→天人となって平穏な生活を手に入れたいのでしょう。 天界というのは天子曰くつまらない場所だそうですが、華扇にとってはピッタリでしょうね。 一巻の怪しい発言を除けばですが、考えて見ると凄く今までの描写と噛み合いますね。だからこそ、華扇は本当に仙人になりたいのだなぁと思えるんです。 腕は危険だという描写こそありましたが、あくまで目的は腕をそばに置いておきたいということ。仙人になるのも穏やかに暮らしたいから。そこに大義はありません。ただ華扇がそうしたいだけ。 茨歌仙を東方らしく、かつスッキリと、今までの描写に沿った形で終わってくれたことが物凄く嬉しいのです。 茨木華扇はただ鬼というだけでも仙人というだけでもなく”華扇” だったんだなぁと思います。ごく個人的な思いを持って生きている一キャラクターです。 矛盾になりそうな二面性を多く持ち、鬼らしくも仙人らしくもあった華扇というキャラの着地点として茨歌仙最終話はピッタリとはまったととても感じるのです。-終わりに 東方茨歌仙は私が東方をちゃんと好きになるキッカケになった作品で、個人的にはそりゃあもう思い入れがある作品です。 もっと作画についても書きたいところなのですけどね、絵の知識がないためどう表現していいか分からないのですよ。無知でも感じることはできますが、表現は難しい……。ただあずまあやさんの絵の変遷は見ていて本当に好き……3巻の丸まった感じの絵もいいけど初期の一枚絵も好きだし7巻31話の表紙はとてもビビットだし、5巻からのデフォル目にしない表情の付け方がめちゃんこ好きだしかといってデフォル目おろおろ華扇めっっっっちゃ好きだし、線の太い細いを回ごとで試行錯誤しているのもいいし特に24話の劇太エッジの悪い顔華扇ちゃんが好きで(ry 「連載終了して寂しい」という思いはあまりなかったりします。それよりも「ちゃんと終わってくれてよかった」とか「9年間お疲れ様」とかという気持ちの方が大きいですね。後腐れなく終わってくれることのどれだけ素晴らしいことか。 大好きだからこそしっかり幕引きをしてほしかった。それが叶ってうれしい限りなのです。 神主さんとあずまあやさんら漫画制作の方々、発行に関わる一迅社様ならびに大日本印刷株式会社様、お疲れ様でした。 追伸 ただグチサァの原理とか河童の腕とかまだ気になるところは残っていますよ!!! 今後触れられることあるのこれ?!?? あと「鬼の象徴である角の大きさは邪気を表していて、だから腕ちゃんの方が華扇より角が大きいのかな? 本体にも角が少し残っているあたりなるほどなぁ」なんてことも思いました。 2019/09/27 最終巻購入の勢いでタイトルやら読みにくい部分やらを修正しました。
[12回]
今日は例大祭でしたが私は遠征が来月に二度あるので行けませんでした。Nibiさんと群青アンブレラさんのCD欲しかったし、なんかラウさんもCD参加してるとか言っててブチブチにキレてました。 そのストレスを打ち消すべく今日はMMDやキングダムハーツ2FMをやったり、グリウサを読んでいたりしました。 さて、グリウサです。The Grimoire of Usami。 このタイトルは過去に発売された弾幕紹介本「The Grimoire of Marisa」を彷彿とさせますが、グリウサでも同様に弾幕紹介を基盤とした作品となっています。 今回の記事はそんなグリウサを読んで私が色々思いついたことをズラズラ書いていきます。グリウサの内容に触れる前に超大事 な前説を!!!! 外来韋編2019springでの神主さんへのインタビュー!! 外来韋編、みなさん買っていますか? 神主さんへのインタビューや各キャラのクロスレビューはよく話題になりますね。 私個人としてはライターの塩田信之さんの書くコラム「幻想のもと」が一番の楽しみだったりします。東方の元ネタを掘り下げ、東方作品での設定のキーワードの出自、神主さんの発想の元などをダイレクトに教えてくれちゃうというめちゃくちゃに面白い記事です。 ズラズラと歴史を書くだけではなく、しっかり東方に関わる部分をピックアップしているのがめちゃくちゃ分かりやすい!! さてそんな外来韋編の2019spring! 巻頭大特集はずばり、東方スペルカードFAQ。神主さんが東方スペルカードに関してアレコレ話すインタビュー記事です。 グリウサではキャラたちが見た弾幕の紹介になるのですが、こちらはかなりメタ的な視点で見た内容になっていてなかなか面白い。ゲームの主役となる弾幕にキャラクター性を持たせよう、と名前をつけたのがスペルカードの由来。どうやって弾幕という攻撃に面白さを出すかという神主さんの努力が垣間見えます。 このインタビューのラストにて、神主さんは「これからは斬新さより東方らしさを目指すかも」という旨を話しています。 神主さんは原作のおまけやらインタビューを見る限り、(失礼な言い方ですが)ゲーム懐古厨です。 映像技術が上がっていく中でゲーム性と演出がゲームの中で離れ始めた時流を嫌い、古き時代の遊びと演出が同時に立っているゲームを愛しています。 そういう意識からゲームと演出がちゃんと組み合わさりつつ新しい、いわゆる「21世紀の20世紀延長型STG」というゲームを神主さんは作ってきました。それが東方というジャンルで受け入れられ始め、演出乖離の時流の中で今しっかりと確立しているわけです。 そんな中で神主さんが開拓より継続をやりたがるのは自然な流れかもしれません。 さて、このインタビュー。思うにグリウサの前振りです。 そうじゃなかったとしても、このインタビューで神主さんが語った弾幕のキャラ性や東方らしさというのが色濃く出ています。グリウサはただの弾幕紹介だけでは終わらない!! 東方世界に飲み込まれるロールプレイング型弾幕レビュー! みなさんゲームブックって読んだことありますか。読み手が選択をしながら物語が進むという、さながらロールプレイングゲームのような本です。読んでいるうちに自分がどんどん作品の世界に入っていく感覚が凄く面白い。 グリウサは読んでいてそれに近い感覚がありました。 さて、グリモワールウサミはいきなり漫画のページから始まります。 董子との会話の中で霊夢は弾幕花火大会というものを思いつきます。立案者となった霊夢、魔理沙、董子に加えて早苗、咲夜、妖夢といういわゆる自機組が審査員となり、弾幕花火の良し悪しを評価するという一風変わった花火大会が開催されるというのが内容。 漫画ページが終わると各キャラの弾幕のスクリーンショット、使用者のコメント、花火に対する審査員たちのコメントと点数が乗るページが続いていきます。クロスレビューの好評ぶりに応えるあたり、買い手に優しくなったなぁなんて思う。 さきほどゲームブックに近い、と書きましたがグリウサにおいては選択肢というものはありません。けれどロールプレイングにおいてプレイヤーを世界へ引きずり込む強大な武器が隠されています。 それは余白と材料。読み手側に「こうなっている」という説明を与えつつもしっかりと描き切らないという古き良きRPGの世界です。 例えば成美ちゃんの業火救済のぺージ。画面下から弾が出てくるというめちゃくちゃやり辛い弾幕ですが、成美のコメントでは「観客席から湧いてくる花火!」とあります。 画面の下から弾が出る弾幕=観客席から湧く花火。つまり弾幕のスクリーンショットにおける画面下というのが観客席側であるということがここで判明するわけです。 審査員たちのコメントでは「観客が危ない!」だの「会場がパニックになった」だの書かれ、ここで読み手には「画面下=観客席側」「火っぽい弾=本当に火のモノもある」というルールが印象付けされるわけです。 しかし字として書いているだけで、観客席から火が立ち昇る絵なんてものはありませんし実際に私たちがその様子を見る手段はありません。つまり想像で補うしかないわけです。 これが不思議なモノで、想像させるということは実際にモノを見せるよりも読み手を物語へ引きずり込むパワーがあります。 古いRPGをやっているとき、戦いの情景を思い浮かべたりしませんでしたか? もしくはキャラの性格勝手に考えてこういうこと話してそうとか想像したり。あの感覚です。 でも何もないところから想像していたわけでもないでしょう。キャラのステータスや見た目、豪華とは言えない演出、ちょっとしたセリフなど想像の材料をちょいちょいと与えられるからこそ想像は捗るもの。 グリウサでは弾幕花火を”実際に ”見ているキャラたちの反応、それらから分かるルールが想像の材料となり花火大会を楽しむキャラや幻想郷の風景を思い浮かべられるという出来になっているのです。 水に関する弾幕では「びっちょびちょになる」や「実は防火措置である」といったフレーズが出たり、生き物が関わるような弾幕だと「気持ち悪い」や「グロい」など生々しさに引く様子が出てきたりと、弾幕を見ている人たちの感想が生き生きしているのも相まってどんどん東方世界へ飲み込まれます。 これも20世紀型の演出の一種ですよね。神主さんこういうの本当に好きなんだろうなぁ。 ちゃんと新しいモノが入っていて、21世紀の20世紀型ゲームブックになっているのが東方らしいというか。解釈の一致多数!キャラクターたちの個性爆発コメント! 弾幕花火それぞれに書かれるコメントは神主さんが書いているだけあり、キャラの個性をしっかりと踏まえられたセリフばかりです。 特に審査員たちは点数の付け方やコメントから物凄くキャラ性が伝わります。個人的な印象を一覧にしていきましょう。 -霊夢 ”実際に ”見た感覚や弾幕全体の完成度を重視している様子。弾幕の美学が根幹にあるようで、ぱっと見が派手でかつバランスが良いモノに高評価をしている。美学に反しているものには割と容赦ない批判をしてくる。お金と食べ物に釣られるあたり非常に霊夢。 -魔理沙 全体を見る霊夢が「しょぼい」など言っているときに、技術とか発想を切り出して評価してたりする。結果がダメでも出来たところを評価してくれるやさしさの塊。一部分の技術を見るのはよく弾幕の真似をする勉強家だからこその視点かも。場を繋ぐために花火を出したり、安全を考慮して懐中電灯使ったり、やさしさに満ち溢れている。 -董子 色数や弾で出来た模様などの要素が多いものを評価している。弾幕の雰囲気や派手さが好きらしい。ぱっと見の印象重視で、純粋に見慣れない弾幕を楽しみながら審査してそう。中二病らしく”そういう ”モノにも反応している。 -早苗 弾幕を出しているキャラの動作への言及を多くしている。他の審査員とは違い、弾幕と弾幕を張っているキャラを両方よく見ている? 妙に面白いツッコミを多くしているあたり、見たものからの感受性に富むのかも。影響されやすいのってそういうことかと納得。 -咲夜 誰よりも観客への安全性を評価している。花火の評価をしろ。咲夜個人としてはスリリングな速い弾幕が好きなようで、ゆったりとした弾幕は物足りないといった評価をしている。それでも高得点を出しているのは速い弾幕<安全性考慮した弾幕。もてなしの気持ちで溢れているというか、なんというか。 -妖夢 完全に見たまんまの所感が評価基準。自分の好みだったり、感覚で評価している。審査かどうかなかなか怪しい言動多々。聖の魔法銀河系を「めっちゃ簡単そうじゃない?(笑)」って言っているあたり、本当に見た目の感覚で生きている子なのだと思う。 私は読んでいて解釈の一致を起こしまくってました。 審査の仕方が実に自機たちらしい基準で、妖夢除く 各々がちゃんと考えて審査している雰囲気が伝わってきました。神主さん大変だったんでしょうねこれ……。 弾幕を打つ側のコメントもどうしてその弾幕を花火として使ったのか伝わってきて、面白いものでした。特に神子……。心綺楼から尊大さがとどまることを知らないですね。 今までセリフがなかったキャラが喋っているのはなかなか衝撃ですね。静葉は初にして唯一のセリフがそれでいいのか。幻想郷はファニーウォーでできている!! スペルカードの神髄とは グリウサにはバカでかい驚き要素が一つ仕組まれていました。それはまぁ言わずもがな、ですので言わないでおきます。こういうことは黙っておいた方が風情があるので。 さて、その驚き要素で投げかけられたのはスペルカードの神髄。スペルカードの美しさは何に起因するのかということ。 本来スペルカードは戦いの中で使うものです。その中でだからこそ輝く、というのが投げかけ。戦いの中で美しく攻撃するのが風情があるのであって、花火などは侮辱である。そういうことでしょう。 実際プレイ動画で弾幕を眺めるより、必死に避けているときの方が弾幕の印象は強く残ります。 ただスペルカード戦というのは、はっきり言ってしまえばファニーウォーです。 弾幕は当たれば痛いし下手すると死ぬと過去に神主さんが発言していますが、見た目にこだわっている時点で弾幕というものに殺意が込められているなんてことはあり得ないのです。弾幕アマノジャクの反則スペル、紺珠伝の純狐などといった反例が出たおかげでその点はむしろ強調されてきたでしょう。 なのでスペルで戦っているといっても、それはどこまで行っても”体裁上”戦っているだけであって殺意なんてものはあり得ないのです。 でも、だからといってそれをあっけらかんと言うキャラは誰もいません。誰もが戦っているフリを装い続けます。 それは上記のように、戦いの中で美しく攻撃するのが楽しいからなのでしょう。楽しむために演じ、ルールに則って戦い、買った負けたといっても誰も死なない。それがスペルカード。 ようは緊張感を演じているに過ぎないのです。 これは妖怪と人間の関係にも通ずるところがあります。 妖怪は存在のために人間を脅かすフリをして、脅かす相手を生かすために人里を守っている。人たちもそれを理解して、妖怪に怯えるフリをしながら生きている。 ファニーウォーがここでも起きています。幻想郷はファニーウォーで出来ているのです。 楽しむためだったり生きるためだったり、色んな得のために妖怪たちは役を演じて生きているのです。それが幻想郷の成り立ちであって、スペルカードにもそれが強く出ている。 スペルカードはそういう回りくどい妖怪たちの遊びの象徴と言えるかもしれませんね。 長々と書いた。 グリウサの個人的な一番の驚きポイントは早苗が妖夢を「妖夢さん」と呼んだことですね。霊夢以外の自機との絡みが全然ないので。まぁ会話ではないし絡みかっていうと微妙なところですけど、名前を呼んだのがなんとなく衝撃でした。 あとは雛……唯一の解釈違いでしたあれは。いやでもちゃんと考えれば変でもないのかアレは。 非常に楽しい本でした。つらくなったら東方好きなグリウサを読めばどうにかなる気がします。 今日の心の状態:上向き。散々遊んで余裕ができてきた。
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