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思いついたことを書き起こして考えを整理させてます。

茨歌仙最終話を踏まえた茨木華扇

※この記事は漫画”東方茨歌仙 ~Wild and Horned Hermit~”を最終話を含めた全話を読んだ方向けです。ネタバレがございます。ぜひとも漫画本編を片手にお読みください。

先日発売されたFebri VOL.55(2019年7月号)にて東方茨歌仙の連載が終了いたしました。
最終話を終えて思ったことは色々ありますが、中でもまとめておきたいのが茨木華扇(茨華仙)というキャラクターについて。
華扇は謎めいていて達観的、されども庶民的で親しみやすいというように多くの表情を持っています。「ギリギリ矛盾していないダブスタが多い」と私は思っているのですが、まぁたくさんの ”二面性” があるキャラです。
そのせいで華扇のキャラはちょっと分かりにくい。東方キャラは往々にして性格が分かりにくいのですが、まぁ華扇はこの”二面性”もあるものだからより難しい。時間を置くと「あれ華扇って結局どういうキャラだっけ」と忘れてしまいそうになるので、思ったことが抜けないうちに書いておこうというわけです。

〜〜〜〜この先ネタバレ〜〜〜〜


-まずはおさらい!茨木華扇ってどんなキャラ?

華扇の特徴をサラッと書きまとめてみましょう。
・仙人であり、鬼である
・やや謎めいた雰囲気がある
・やたらと裏活動したがる
      ・ドヤ顔が似合う
      ・仙人のくせに食事を好む
      ・二次創作で淫ピ呼ばわりされる
この三つは作品内(および深秘録)で繰り返し強調されてきたことですね。
以前の記事にて詳しく書きましたが、ここら辺は設定のブレがある東方作品と言えども確定事項であると考えて大丈夫でしょう。

また、すでに前述していましたが個人的に感じているのは二面性。
動物を導き、霊夢には説教をかまし、人知れず活動している浮世離れした仙人的な一面。気に入らない怨霊をグチサァし、「化け狸風情が」と問題発言をし、炒った豆を嫌う鬼的な一面。
モグモグしながら現れる、デフォルメおろおろ顔を見せるなどの可愛らしい面。時折恐ろしく悪そうな顔になったり、意味深なことを言って底の知れない何かを感じさせる怪しい面。
動物たちの使役に関してドヤ顔を見せるなどの自らを誇る面。人知れず活動をし、記憶消去などを用いた隠蔽を行う目立つことを嫌う面。

こんな風に華扇は相反するような要素を多く持っています。
そもそも鬼と仙人という二つの要素のあるキャラですから、これも意図して作られているのではないかなぁというのが私の予想です。

普段は楽しそうに生活してるけど、目的のためとあらば強行も辞さない。そんなところが華扇の魅力じゃないかなと考えております。


-茨歌仙最終回で明かされた華扇の目的

さて華扇というキャラを大まかに理解するために、凄く大事なことが最終話で描かれました。
最終話における華扇の独白において、切り取られた腕には彼女の邪気が込められて封印されたとあります。
そして邪気のなくなった華扇は地獄のような現実に興味がなくなり、仙人になったと。

つまり『華扇は真に仙人になりたかった』ということです。

茨歌仙を読んできた方はこの事実にビックリしたのではないでしょうか。私は「は???!!?!??うおぉお?!!!へぇっ!!!!!」みたいな奇声上げました。

前回の記事には書きましたが、華扇はかつて「仙人生活はただの隠れ……(隠れ蓑?)」「良いことしてるように見えるはずなんだけどなー」などという発言をしております。
これらと今回の事実は明らかに噛み合いません。初期の描写では仙道を歩むことが目的ではなく、建前として扱っているように見えますからね。

端的に言ってしまうと、昔の設定が微妙に消える “いつもの東方現象” が起こっていたのだと予想できます。
最終話が載っているFebri VOL.55には神主さんとあずまあやさんへのインタビューも掲載されています。この中で神主さんは「これまで華扇が主人公としてほとんど動いてなかった」「初期は陰のある紫的な立ち位置だったが、ユルい保護者みたいになった」と言っているあたり、華扇というキャラ自体がどこかのタイミングで変わったのでしょう。

というわけで初期の不穏な感じは忘れた方が良いです。完全になくなったわけでもないようですが、少なくとも1巻のままのキャラではありません。


-メタ的な華扇の変遷! いつもの東方現象はどこで起きた?

さて “いつもの東方現象” です。茨歌仙ではどこで起きたのかなぁと考え始め、まず思い出したのが7巻収録の ”茨華仙の進む道“ でした。

この回にて、華扇は「私の理念は天道と共にある」と発言をしています。
最終話を読むまで、私はこの発言をキッチリ受け止めることができませんでした。今までの見てきたどこか陰のある華扇と天道という華々しい言葉が結びつかなかったのです。

しかしこれには「華扇がもはや初期の華扇とは違う」というメタ的な意味も含まれているのだとしたら。
「私はあなた(紫)側ではない」という言葉から続いたこのセリフは、神主さんの中で紫と華扇の立場がまるで違うから(違くなったから)出たのでは。
そう思うと、何年越しかでこの天道発言が腑に落ちたのです。

かーなーり考察厨じみた私見になりますが、この回は『茨木華扇というキャラの設定はもう既に変わったのだ』とハッキリと決定させるための話だったのではないかと考えています。

まぁその後紫との対面を霊夢に見られないように逃走しているあたり、相変わらずだなぁという面もありますが…。完全に善人キャラになったわけでもなく、まぁ良い感じに鬼成分がアクセントになった真面目キャラに落ち着いた感じですかね。

こう見ればこの回で “いつもの東方現象” は完全に起こり終えて、神主さんの中では華扇のキャラは別物になったと見れますね。7巻はあずまあや先生の絵柄の変遷も収まり(ブラッシュアップは起こるけど)、色々な意味で茨歌仙が形として収まった巻だったのでは?

では “いつもの東方現象” の起こり始めはどこか? こればっかりはなんとなくでしか分かりませんね。

強いて言うと、という感じではありますが……深秘録でしょうか。
今作のEDにて華扇は「用事を済ませるために外の世界に出たものの、あんまり意味無かった」といったことを語っており、これは茨歌仙最終話の回想で描かれたことを指しているのだと考えられます。
深秘録製品版が頒布されたのは5巻の内容が連載しているあたりです。この頃にはすでに茨歌仙のオチの想定されていて、華扇のキャラも初期の大悪党とは違うものになっていたのかな?なんて思ったり。

また深秘録では「猿の手が願いを叶えてくれるなら、猿の手のままでいてもらおう」ということも言っています。
猿の手のままで。自分の手ではなく。これは「猿の手では換えが効かない」という意味だと思っていましたが、最終話を踏まえれば「そもそも腕を生やすことが目的ではなかった」ということだったと読めます。
深秘録と最終話で繋がる点が割とあるあたり、やっぱりこの頃には華扇のキャラの変遷は起こっていたんじゃないかなぁ。

少なくとも大悪党だったのは3巻くらいまで? そこから変遷していき、7巻では完全に良い人になっているというのが持論です。


-仙道を歩むという華扇の目的

華扇の目的というのは今までずーーーっと明かされてこなかったのですが、今回『封印された腕をただ隣に置いて仙道を歩む』ということが分かりました。
彼女は腕の完治、鬼としての完全復活などを望んでいなかったわけです。

これには「はーーーーーーーんなるほどーーーーーーーーーーーーー」となりました。
腕に関してなにかしらケジメをつけるのでは、とは想像していたのですが「そばに置いておくだけ」というのは予想外。
てっきり腕を消滅させることが目的かなとか思ってました。
もしかしたら華扇ごと完全消滅するという悲しい終わりになるかも、とか予想しましたが東方でそんな悲しい展開が東方で起こるわけはない。

この回以前で華扇の目的について言及があったのは4巻での萃香との会話ですね。
萃香は「華扇は結界を突破して腕を探しに行くために、正体を隠して博麗神社に近づいている」と予想していました。確かに博麗神社といえば結界です。阿呆のようで幻想郷の知識が結構深い萃香がこの予想をするのは当然と言えば当然。

しかし華扇はこれに対し「別にそういうつもりでもないけど」なんて内心独り言ちています。
実際、結界がらみで神社に近づいている意志はなかったんでしょう。「神社が結界の境界である」ということを華扇が知るのは5巻の話。

話がズレますが5巻で結界について知ったとき、華扇は「それはそれは」と意味深な反応をしています。多分深秘録の前振りでしょう。
深秘録では華扇が神社にて結界を壊していますが、当然神社が結界の境界だということを知っていなければこの行為は不可能なわけです。華扇が結界の情報をここで知ることで深秘録のストーリーが成り立つ、という流れ。

では神社に近づいたのはなぜか。
これは一話のセリフを素直に受け取ればいいのでしょう。「仙人として神社の様子を憂いていた」「俗界に興味が湧いてきた」とかそういう仙人らしい理由になるでしょう。

結界のことは元々知らない。「腕を再封印するには一度霊夢に自分を倒してもらう必要がある」ということも外の世界で腕を見つけて初めて気づいた。つまり、計画的に神社に近づいたわけではないということになります。

それに華扇は一話時点で説教好きの仙人であると言われてます。
霊夢の商売下手さを指して「見るに堪えない」と評し(深秘録)、早苗には「霊夢のお母さんみたい」と評される(8巻)ようなキャラです。神社をどうにかしようとするのも不自然ではないでしょう。

でも大悪党発言とか考えるとなぁ、となる気持ちもありますがそれは全て”いつもの東方現象”という言葉で片付けましょう。

華扇の目的はかつてのケジメとして腕を手元に置き、仙道を進むこと。
神社に近づいたのは仙人としての活動の一環で、悪いことをするつもりはなかった。色々なことを考えても結局明文されたこれが真実なんだと思います。


-結局華扇もワガママな東方キャラの一人

私が個人的に最終話で一番よかったと思うのが、華扇が仙人になりたい理由が ”邪気が消えた影響で現実に興味を無くしたから(天界へ行きたいから)” であったことです。

腕ごと邪気を封印されたというキッカケはあるものの、仙人になりたい"から仙人を目指しているというのが凄く東方らしくて良い。
これこれこういう過去があってこういう因縁だからこうしているなんてことになったら幻想郷に住む妖怪らしさが消えますからね。自分の欲望のために生きているワガママであってこその東方キャラですよ。

憑依華のドレミー曰く「夢華扇は静かに暮らしている」とのこと。解釈の一致でした。
最終話の回想および「人に近づきたかったから」(4巻)も含めて察するに、彼女は鬼の生活に嫌気がさしたので仙人→天人となって平穏な生活を手に入れたいのでしょう。
天界というのは天子曰くつまらない場所だそうですが、華扇にとってはピッタリでしょうね。

一巻の怪しい発言を除けばですが、考えて見ると凄く今までの描写と噛み合いますね。だからこそ、華扇は本当に仙人になりたいのだなぁと思えるんです。

腕は危険だという描写こそありましたが、あくまで目的は腕をそばに置いておきたいということ。仙人になるのも穏やかに暮らしたいから。そこに大義はありません。ただ華扇がそうしたいだけ。
茨歌仙を東方らしく、かつスッキリと、今までの描写に沿った形で終わってくれたことが物凄く嬉しいのです。

茨木華扇はただ鬼というだけでも仙人というだけでもなく”華扇” だったんだなぁと思います。ごく個人的な思いを持って生きている一キャラクターです。
矛盾になりそうな二面性を多く持ち、鬼らしくも仙人らしくもあった華扇というキャラの着地点として茨歌仙最終話はピッタリとはまったととても感じるのです。


-終わりに

東方茨歌仙は私が東方をちゃんと好きになるキッカケになった作品で、個人的にはそりゃあもう思い入れがある作品です。
もっと作画についても書きたいところなのですけどね、絵の知識がないためどう表現していいか分からないのですよ。無知でも感じることはできますが、表現は難しい……。ただあずまあやさんの絵の変遷は見ていて本当に好き……3巻の丸まった感じの絵もいいけど初期の一枚絵も好きだし7巻31話の表紙はとてもビビットだし、5巻からのデフォル目にしない表情の付け方がめちゃんこ好きだしかといってデフォル目おろおろ華扇めっっっっちゃ好きだし、線の太い細いを回ごとで試行錯誤しているのもいいし特に24話の劇太エッジの悪い顔華扇ちゃんが好きで(ry

「連載終了して寂しい」という思いはあまりなかったりします。それよりも「ちゃんと終わってくれてよかった」とか「9年間お疲れ様」とかという気持ちの方が大きいですね。後腐れなく終わってくれることのどれだけ素晴らしいことか。
大好きだからこそしっかり幕引きをしてほしかった。それが叶ってうれしい限りなのです。

神主さんとあずまあやさんら漫画制作の方々、発行に関わる一迅社様ならびに大日本印刷株式会社様、お疲れ様でした。





追伸
ただグチサァの原理とか河童の腕とかまだ気になるところは残っていますよ!!! 今後触れられることあるのこれ?!??
あと「鬼の象徴である角の大きさは邪気を表していて、だから腕ちゃんの方が華扇より角が大きいのかな? 本体にも角が少し残っているあたりなるほどなぁ」なんてことも思いました。

2019/09/27 最終巻購入の勢いでタイトルやら読みにくい部分やらを修正しました。

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